unioo-1618’s blog

理念「信仰と宇宙」、夢「宇宙語」

「現学」とは何か

みなさん、こんばんにちは〜⭐️ 丸々です!!

今日は、僕が根に持つ考えや認識について語りたいと思います⸜( •⌄• )⸝

これは「私哲学」と言って、HSの宗教の教義にもないオリジナルな考え方であります。この「私哲学」を主柱としている学問こそ、人間が根に持っている「現学」であり、人間の念いそのものであると思います。

短い文章ですので、興味ない方もご覧いただけるとありがたいです❤️

 

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まず、「現学」とは何か

みなさんが普段なにげない日常の中で、考えていること・思っていること。

そこには間違いや正しさが数多くあります。

それは神のみぞ知っているということであり、自分自身にも宇宙にも神は心の内外にいます。

まず、みなさんは何が正しいかを知りません。

 

「現学」とは、「哲学」であり

そしてそれは大学で学ぶものに止まらず、

社会やビジネス、あらゆるネットワークで考えがあちらにもこちらにも発信しているもの。

たとえば「宇宙とは何か」「人間とは何か」「神とは何か」「お金とは何か」「会社とは何か」をみなさんは知っている人はそれをテーマに問答するが、知らない人は憶測で語る。

それはあなた自身における考えであり、あなたそのものであることを意味します。

 

「考えているあなたこそがあなた自身である」ということは真実です!

そして、あなたのその考えの集積や集合体は「哲学」であり、これを人々はコミュニケーションやSNSを通して理解する。

そうした自分自身の中に宇宙の真理を見出した考え方こそ、自分の中に眠っているものが現れたる部分こそ、その人の気付きや発見である。そうした発明の部分が小部でも大部にもある。

これが現れたる学問、「現学」なのです。

この語源は僕が作りました。哲学は難しいですが、現学は比較的に簡単です。それは各人が考えているところにあるのですから。

 

まず、人々は何かを信じ、そして答えます。

それがあなた自身の個性の現れ、認識の表現。これが「現学」です。

しかし、あなたは「一人一人に意見があるから、否定しない」で鵜呑みにして受け入れるでしょう。

そこで、裁きが起きます。

それは相手が裁くのではなく、自分自身で裁くのです。

それはどういうときでしょうか?

実は、それが神仏から来た課題であるのです。神仏はあなたに背負える課題は与えられず、自分自身にできる課題からスタートします。これは僕の考えではなく、神の言葉を聞いて従った考えです。

 

つまり、あなたが悩んだり苦しんだりする時に、考え方の修正が来ます。

よって「悩みや問題は、あなた自身を変えるということ」であり、

それが「現学」が古い異物を捨てて、新しく入れ変わるチャンスであるということです。

つまり、一人一人に「人生の問題集」が与えられており、問題が来たら解法を見つけ出し、正解したらそれを自分自身の正しい考え方に変えるということです。

よって、あなたの考えてることや思ってることの修正が大事であり、「反省する」ことで考え方を変えて新しい人間に生まれ変わるようにできているということです。これがmind changeです!

それは心の中の表面意識ではなく、潜在意識に起きて来ます。心の深いところで反省していくことが大事です。

考え方をそのままにするのではなく、変えていくことにあります。

 

現在起きているあらゆる恐慌は「神の啓示」であり、人類に反省が迫られているということです。これは「その考えもあるんだな〜」ということではなく、「本当のことだ」(真実)と理解して欲しいのです。

みなさんが考えているその考えの主柱は「現学」であることを述べました。

そして、それがあなた自身にしかない世界空間の中の宗教や道徳を作っているということでもあります。

 

ちなみに、「現学」には2つの考えがあります。1つは「神を信じる人」ともう1つは「神を信じない人」です。神を信じない人にも自分自身の立脚した考え方を持つことができます。それは宗教人にも無宗教人にも。

 

「現学」には3つの構成でできています。一つ目は「この世の中の仕組みや理想世界を自分の中の真理に基づいて理路整然と創作する」ということ。そして、二つ目は「日々の日常の反省を通して発展していくことで自分になかった考え方や感じ方が生まれる」ということです。

三つ目は「神の言葉を聞くということと現代の時事(マスコミ報道内容)や今身の周りの仕事で起きている情報を理解して危機感を持つ」ということです。

この一つ目を「現法」といい、二つ目を「現状論」といい、三つ目を「現代法難」といいます。

「現法」には「法体系」「時間論」「空間論」「人間論」「その他」を代表軸として、あらゆる物事を交えてできています。「現状論」は日々つづる個人における日記の編纂に似ています。

 

そして、現学が修正されると未来の現学である「来学」になります。

このように、哲学は問答法のように起きるものを超えて、現代における「現学」が人類や過去、平和な未来にも永遠に訪れるものであるのです。

そして、無宗教のかたや神を信じない方、物がすべてと考える方においても、信じられないようであるけれども、あなた自身にしかない世界観や価値観ができて来ます。

このように、思いの世界はありとあらゆる360度以上にグルグルと展開されている世界であります。そうした「個人の思想」と「社会の思想」が同時に存在するのです。

「現学」とはその人自身の本何冊分の内容を貯蔵所なのです。そのデータが頭だけでなく、心のなかに履歴が埋め込まれていくのです。

 

また、「現学」の正しいやり方は、「教学」「反省」「瞑想」「祈り」の基本的な信仰生活の実践と「人生計画表」の立案や「日記の付け方、読書」にも習慣としてあります。こうした観点がとても重要です。

 

下記の「考現学」とは若干違いますが、現在ある自分としての考え方があり、理想はその考えを透明にし、空しくする。それは、「世・人・主」のために生きるということであり、つまり、神仏や家族、友人、恋人、社会を生かすために生きるということであります!そうした無私無我の心が理想の哲学です。

 

ここまでが、神の言葉を直接、目や耳で理解して、その主の考えに基づいた「新哲学」であります。

 

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いかがでしたでしょうか?!

今回は自分の過去に眠っていた思想を呼び覚ます内容として投稿致しました( ᐢ˙꒳​˙ᐢ )

「神の言葉」に関しましては、以前の記事「神について」「あの世について」など様々に語ってまいりました。その中でも『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』をご参照ください!

そして、私がこれから語る内容は、神が語る「人生論」「宗教」「心理学」に止まらず、個人における「新哲学」「新数学」「宇宙語の真実」について語ります。さらには、「政治」や「経済」だけでなく、「旅行」「音楽」「料理」も語ってしまうかもしれません。。

また、学問は社会に影響を及ぼす存在でもあります。ちょっと難しかったとは思いますが、大事なことなので、この話はまた今度お話したいと思います🐒

 

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20/04/27

 

「コメント✉️、イイね❤️、フォロー👍」をお待ちしておりますgood✌️

ご精読ありがとうございます。

以上、丸々でした〜〜(*´ー`) フッ

一度は誰でも経験したことのある「幸福のしっぽ」のたとえ

みなさん、こんにちニャン(ᐡ o̴̶̷̤ ﻌ o̴̶̷̤ ᐡ) 丸々です(^ ^)

 

みなさんはネコを飼っていますか?

私はネコが昔、噛み付いて来てコワイ思いをしたことがありますが、小学生の時からか、ネコは可愛いな〜と思うようになりました(っ ‘ ᵕ ‘ c)

ちなみに余談ですが、ネコは現在好きですが、犬が苦手です🐶 

 

😹私が猫を飼っているかどうかは秘密です!

 

ところで、みなさんは、なぜやりたいことよりもやるべきことをやるのか考えたことがありますか?あれが欲しい、これもしたいという気持ちだけではなく、そしてまた、過去において引きづってしまうことや堂々巡りや欲深さ、遠回りの人生があると思います。

そうした一度は誰でも経験したことのある考え方に対してアプローチしていくという意味での人生論や思想、考え方に関するお話です。そのお話とは詩「ネコのしっぽ」で本当の幸福とは何かがわからないこの世の中であっても、人生の中での幸せを誰でも手にすることができるというお話です。

今回はネコに関する諸事情ではなく、有名な「猫のしっぽ」をテーマに、著名な書籍から抜粋にて語ります!!偏見を持たずに、ご一読頂けるとありがたいです( =^・_・^)=〇ニャンッッ

 

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まず、最初に詩っぽいの『心の指針』 からです。

 

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子猫がくるくると

自分のしっぽを追いかけている。

みかねた年とった猫が、

「坊や、どうしたの。」とたずねた。

子猫は答えた。

「猫にとって一番大事なのは幸せで、

その幸せは、僕のしっぽだと気づいたんだ。

だから、しっぽをつかまえたいんだ。

そうしたら僕はきっと幸せになれるから。」

 

大きな猫は言った。

「私も若い頃は同じことを考えたわ。

でも悟ったの。

しっぽは追いかけると決まって逃げていく。

でも、自分のやるべきことをやっていると、

しっぽは、私がどこへ行っても、

必ずついてくるものなんだよ。」

 

このたとえ話の意味がわかるだろうか。

幸福とは、自分の外部にあるもの、

他人がくれるものだと考えていると、

いくら追いかけても手に入らないものだ。

しかし、

自分の価値を自分の内部に発見する人は、

いつも幸福でいられるということだ。

 

奪うのではなく、

すでに与えられていることを喜べ。

あなたの感情の選択が、

あなた自身を幸福にするのだ。

↑↑↑↑↑

 

このように、自分の中にはなくて外にあることが幸福だと思ってやっていると失敗します。しかし、「自分で自分を見つめる」ということをして自分のなかにある可能性を見つけてから、自分に与えられていることをこなしていくと幸福になるということです。

「ネコ」とは自分が可愛いと思っている心情を表しています。

自分にないものを求めるのではなく、まず「足ることを知る」ということからスタートするということです!

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続いて、『the laws of steel』からです₍ ᐢ. ̫ .ᐢ ₎

 

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「繁栄のための考え方」というのは、「幸福」を追い求めるのと似たところがあります。

幸福について、以前、私は、「猫のたとえ」を使って、巻頭言(kantou-gen, 「心の指針」)にも書いたことがありますが、それは、次のような内容です。

「『猫にとっての幸福はしっぽなのだ』と気づいた子猫は、『何とかして幸福をつかまえてやろう』と思い、自分のしっぽを追いかけるけれども、追いかけても、追いかけても、クルクル回るだけで、どうしてもしっぽをつかまえられない。それを見ていた年取った猫は、『諦めて(akiramete)、自分のやるべきことをやって、トコトコとまっすぐ歩いていけば、しっぽは後ろからついてくるものなのだよ』と教えた」

これは、アメリカの心理学者が書いた本のなかにあったたとえ話であり、私が若いころに読んだなかで、非常に印象に残ったものの一つでした。

不思議なことに、「幸福」は、追いかけ回っているときには逃げていきますが、気にしないで、普通に、当たり前に、どんどん前に歩いていると、すぐ後ろからついてくるのです。

「幸福」とは、すでに自分が所有しているものであり、猫のしっぽのように自分に付いているものなので、真っ当に、当たり前に歩んでいけば、ずっとついてくるわけです。

ところが、「幸福は自分の外側にある」と思って追いかけていると、逃げてしまいます。そして、猫のように何度もクルクル回っているうちに目を回してしまい、とうとう、「幸福というのは、つかまえられないものだな」と思って、諦めてしまうことがあるわけです。

要するに、「幸福というものは、本来は自分のなかにあって、自分に付属しており、すでに持っているものだけれども、つかもうとすると、つかめない。しかし、つかもうと思わずに、ごく当たり前の生き方、すなわち、当たり前に勉強し、当たり前に仕事をし、当たり前に考えて、やるべきことを普通にやっていると、気がつけば自分についてきている」。幸福とは、そういうものなのです。

人生を四十年、五十年、六十年、あるいはそれ以上生きた人がこうした話を聞くと、「ああ、そのとおりですね」と、思い当たることがあると思います。

特に、若いころは、「幸福のしっぽ」を一生懸命追いかけているのですが、クルクルクルクル回ってしまい、いつまでたっても噛みつくことができずに、悔しい思いをすることもあるでしょう。「もうすぐ届きそうな気がするのに、噛もうとしたら、しっぽが逃げる。『このしっぽめ!』と思って、追いかけても追いかけても、追いつかない」といった感じかもしれません。

ところが、「しっぽなんか、くわえられなくてもいいや。しっぽをつかまえたら幸福になれると思ったけれども、気にしないで、やるべきことを毎日やらなくては駄目だ」と思い直してやっていると、やがて、「しっぽなんて、自分の思うとおりにいくらでも動くものだ」ということが分かってくるようになります。

これは、すべてに展開できる、ものの考え方なのです。

↑↑↑↑↑

 

ここで、私の実体験ですが、海外に行ったことがないから海外に行けば幸福だと思ってセブ島に留学したことがあります。これが本当に幸福だったかというと、私はその中に行って味わったことのない体験、束縛された日常からの解放を感じたので私にとっては幸福でした。しかし、私の身の回りにいる友人たちや先輩や仕事の同僚は幸福だと思うかによって本当に幸福だったかどうか全体的に分かると思います。

また、友人から「一緒に住みたい!」(シェアハウス)ということで、地方の方ですが、それが本当に幸福なのか、自分の自由を妨げている意味では、使命を貫くという意味では、幸福は難しいものだなとつくづく思います。

しかし、幸福ではなく、不幸な生き方をしていると、心の病気である精神障害者になってしまったり、体の腰あたりに病気を作ってしまうことだってあるので、心の底から笑顔を作れば良いということも大事ですが、やはり、やるべきことをやって楽しいと思う気持ちや「無欲の大河」(欲がなく小さな出来事で喜びを感じる日々)になるということが最も大事なことなのではないかと思います。

何事も内に籠もって外には何があるのか求めたいという思いで、内のことは捨てて外のことをやっていると、なぜか内のことが気にして仕方がない。戻りたいのに戻れない屈辱が出て来ます。すると、外に行けば自由になれたと思ったのに不自由がつきまとい内にいることが正解だったという考えに到るということになります。ただ、今の現状でも「ステイホーム」と言って、やるべきことがやれないなら不幸ですよね?ならば、自分を見つめる時間を大切にして、ちゃんと反省をしてから新しいことに挑戦することも大事なことだと思います!ここまでが個人の意見です。

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続いて、「猫のしっぽ」の話題になった由来を見ていきましょう!まず「アメリカの心理学者」とはエドワード・ソーンダイクや下記のダイアー先生のことですが、この2人の著作からご覧いただくとおり、猫の存在が人間の心の傾向性として似てる箇所はかなりあるということが分かります。

 

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幸せを追いかけていくと

 “幸せ”ということについて、心理学者のウエイン・W・ダイアー博士が、
『自分のための人生』の中で次のようなたとえ話を述べています。紹介しましょう。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 子猫が自分のしっぽをつまえようとしているのを見て、大きな猫がこう尋ねた。
 「どうして自分のしっぽをつかまえようとするの」

 子猫が答えた、
 「猫にとって一番大事なのは幸せで、その幸せをは僕のしっぽだってことがわかったんだ。だからつかまえようとしてるの。しっぽをつかまえたら、きっと幸せになれるんだ。」

 するとその年取った猫が言った。
 「坊や、私もそういうことに関心を持ったときがあった、私も幸せは自分のしっぽにあると考えた。けれど気がついたんだよ。しっぽは追いかけると決まって逃げていく。でも、自分の仕事に精をだしていると、しっぽは私がどこへ行っても必ずついてくるみたいだよ」

 (『自分のための人生』 ウエイン・W・ダイアー著 
   渡部昇一訳・解説 三笠書房 刊)

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猫の問題箱
問題箱は箱の中の紐を引くと扉が開くようになっている。その中に猫(被験体)を入れ箱の外に餌を置く(刺激状況)。猫は餌をとろうとするが、とることはできない(誤反応)。しかし、何らかのきっかけで紐を引くと扉が開き(正反応)、餌をとることができる。餌をとるまでがひとつの試行であり、被験体は試行を繰り返すことで、誤反応が少なくなり正反応に達する時間が短くなる。これを試行錯誤学習と言い、この考え方を試行錯誤説という。・・・(wikiより)

 

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物理学者が唱えた「シュレンディンガーの猫」のたとえとは若干違うのですが、やはり「猫のしっぽ」とは幸福になるためにはこの考え方が人生に大きな影響を及ぼすということが分かると思います。

また、講師の解説は下記になります。↓

幸・不幸を決めるのは自分の心であり、外部の環境ではない。ひとりひとりの人間は、そんなに弱い人間ではない。なぜなら、仏の性質(勇気、思いやり、優しさなど)がひとりひとりに宿っているからだ。だから自分を変える力を持っているし、さらに世の中を幸福にする力をもっている。世の中を幸福にしょうと生きる中に人生がひらけていくのだ。

 

っということで、、いかがでしたでしょうか?🐈

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『心が豊になる法則』の中でも、、幸福とは猫のしっぽのようなもので、その存在を忘れて、まっ直ぐに歩いていくと、黙って後ろからついてくる。それと同じように、お金も、お金の亡者になって追いかけることなく、一日一日の生活習慣を改め、考え方を改める努力をしていると、自然にたまってくるものである。

っというように、何かにとらわれる(異性、お金、酒、ギャンブル、やりたいことなど)とそのことが気になってどうしても頭から離れられない。しかし、それを気にしないで目の前のことをコツコツと努力するということ何ですね!!

つまり、求めることよりも与えること。すでに与えられていることに気づくということですね🐱

 

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20/04/25

 

みなさんは、この内容を見てどう感じましたか???

ご感想いただけるととてもありがたいです⭐️

「コメント✉️、イイね❤️、フォロー👍」をお待ちしております(=`・ω・´)っニャン

また明日もお楽しみに✨✨ 以上、マルニャンでした〜〜(^-x-^)(^-x-^)

 

ここまでの内容に関しましては、下記リンクに貼っておきますので、ぜひぜひご覧くださいませ👇

http://hskamember.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/79-2ff2.html

「時間」とは何か <後編> 7

みなさん、こんばんは〜─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ 丸々です!!

 

今回のテーマは後編なので、前回の続きです。前回は、「時間」とは何かを語り、「パラレルワールド」さらには「あの世」についても語りました。ただ、説明不足な所ですとか「ワケ、わからん(*'へ'*)」という読者さまいらっしゃると思いますので、分かりやすくご解説致したいと思います。

いきなり、パラレルワールドの話をされると訳わかんないッスよね〜w

でも、なんでこれが「時間」と関係するかは、「時空とは何か」を宇宙物理学を通して学ぶときっかけが分かるからなんですね。

 

ちなみに、話がぶっ飛んじゃうのが僕の悪癖です。。。今回は「余談」(パラレルワールドとあの世)と「本題」(時間について)を分けてお話したいと思います。

後編の「時間」について知りたい方は後半をご覧くださいマセマシ(^―^)/

 

 

【余談: パラレルワールドとあの世】

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まず、様々な惑星は、地球を見れば太陽の一部から分かれたマグマが冷え固まり、小惑星ができ、軸をもち、引力を発生させ、様々な物質を引き寄せて、海ができ、山ができ、菌類ができ、生物が誕生し、人間も生まれた。そして、様々な文明が興隆と沈没を行い、人間たちが文字を作り、言葉が生まれて社会ができ、進化させて、今現在がある。ここまで46億年かかりましたが、遠い未来では約数十億年後に地球滅亡のときが現れます。そのときに地球人たちは宇宙船を使って、他惑星に移住するようになるとも言われております。

こうした地球の歴史を見て見ますと、土星にも銀河のどこかの惑星においても、ブラックホールが存在するということは星の破壊がどうやらどこにでもあるということですから、「星は生があって死がある」ということが分かると思います。そして、「人間にも生と死がある」ように「星にもそれがある」ということなんです。星の転生輪廻は螺旋構造もしくはDNAの周辺を軌道として周回しているんです。

そして、「人間はこの世とあの世を転生輪廻する存在」であり、「星にもブラックホールがあって、そこに吸い込まれてまた、新しい星に生まれ変わる転生輪廻のようなものが存在します」という、、、ややこしいお話はこのブログが100人フォロワーを達成したときにお話致したいと思います。

 

ところで〜、ですね、、、、⸜( •⌄• )⸝  随分と生意気や独断のようなことを逗子逗子と語るな〜と思われている方も多いと思うんですけども、、この内容はすべてこの世界や宇宙の真実を聞いて、分かっているから語っていることをご理解いただけると幸いです。

んで、「あの世」と「パラレルワールド」について

信じられない七不思議ごとだらけだと思うんですけどぉ〜〜

 

まず、その違いについて、まず、私はあなたに質問します!!

一つ目は「あなたとは何ですか?」ということです。

その思っているあなたによって、その世界が現実には起きないけれども、あなたの見ていない夢や見る夢のあらゆる世界のなかで、あなたのなりたい自分やなりたくない自分がいっぱい出てくる世界のことです。この世はパラレルワールドと並行した世界であり、書籍『アトランティス文明・ピラミッドパワーの秘密を探る』でも「あなたを虚数化したらどうなるか」とも書かれているので、「虚数」とは「何でもあり」ということでもありますから、そういう意味で「何でもなれる世界」つまり「鳥になりたかったら鳥になってもいい」「お医者さんになりたければそうなっても良い」「女が男になりたければそれもできる」という「思いが物質化する世界」でもあります。それがこの地上のなかでも、引き寄せて起きたり、別のところで起きたり、条件が釣り合わない場合であっても、向こうの世界では完結した世界のことだと思うんですね。

 

では、次に最後の質問です!それは「あなたは死んだらどこに行きますか?」ということです!

「死んだらパラレルワールドに行くのか?」については間違いです!しかしながら、「人間はこの世とあの世を転生輪廻している」ということを前提として理解頂きたいのですね。たとえば、日本の家族ができる前の先祖たちは「仏教を信じている」のです。そして「あの世がある」ということを祖父母を通して教わったと思います。死んだら、みんな幽霊になるワケじゃないんです。それは、あの世を知らないからそうなっているだけのことです。

「あの世」には「天国と地獄」があります。「良いことをすれば天国、悪いことすれば地獄」この当たり前のことを分かっているどうかが重要です。まず、物事には順序がありますあの世をまず最初に知ってください。あの世は地球の周りに数多くあります。それは太陽系の大きさよりも小さいです。そして、太陽系を超えた先にはパラレルワールドが数多くあります。つまり、パラレルワールドの秘密はあの世を知ってからジャないと頭がこんがらがるんですね。よって、あの世はこの地上に生きているみんなが最後に行くべき世界であることを熟知して頂きたいと思います。

つまり、我々人類が宇宙に行くことは不可能であり、その理由は、霊界を通ってから宇宙に行かないと、宇宙に行けないということです。まず、霊界及びあの世の世界とは何なのかをよく理解しましょう!その内容につきましては以前の「あの世について」をご参考いただくと分かるかと思います。追加でお話することも次回いつかは分かりませんが、そのときにお話致します。

 

んんんんな、ことで、、、ε- (ー ^ ) フッ 「時間」についてです!!

 

【本題:時間について】

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前回では「存在と時間」について書籍から抜粋にてつづりました。存在するもののなかに時間が内包されているから、すべての人間には永遠の生命が宿っているということでしたね( ̄ー ̄)ニヤリ

要するに、この世でもあの世でも魂を持つすべての霊人や人間、動植物は時間が与えられていて、そして、実際に「生後も死後も、我思うゆえに我あり」というような自覚や認識ができるということですよ。

今回は書籍『黄金の法』のなかの「一日を黄金に変える魔術」と「時間のなかの真理」について抜粋として、こう書かれております。

 

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1.「一日を黄金に変える魔術」

数十年の人生を、長いと感じる人もいるでしょう。逆に、それを短いと感じている人もいるはずです。しかし、その人の人生の内容がいかなるものであっても、一日に朝があり、昼があり、夜があるように、人生にも朝があり、昼があり、夜があるのです。この事実を否定することは、だれにもできません。

ひとたびに昇りきった太陽を、もう一度逆戻りさせることができないように、あるいは、沈みかかった太陽を、再び中空に引き戻すことができないように、あなたがたの人生も、後戻りすることは許されないのです。過去は、反省の材料としてあるだけです。未来は、未知数です。すなわち、あなたがたの手のなかにあるのは、現在だけであり、だれもが平等に、「一日」という、自分の「現在」と直面しているのです。

人生とは、一日の連続体だと言えます。一昨日があり、昨日があって、今日がある。そして、今日があり、明日がある。ということは、より良き人生を生きたいとするならば、一日一日を着実に生きてゆくしかないのです。黄金の人生を創ってゆくためには、一日一日を黄金に変えてゆくしかないのです。そして、一日一日が、すべて黄金に変わってゆけば、人生全体も、必ず金色の光を放つものとなるはずです。

 

勝負は、一日のなかにあります人生が金色(konjiki)に変貌(henbou)するか否か(inaka)の勝負は、一日24時間のなかにあるのです。すなわち、この24時間を、いかに有効に使うか。そこに、勝負があるのです。

人間は、時間の下(moto)に平等だと言えます。たとえ、どんな大金持ちでも、どんな貧乏人でも、あるいは、いかなる偉人でも、いかなる凡人でも、人間はすべて、時間の下(moto)に平等なのです。どのような人に対しても、一日は24時間しか与えられておりません。逆に言えば、いかなる人にも、平等に、一日24時間が与えられているのです。

たとえば、お金は借りてくることができます。しかし、時間を借りてくることはできないのです。お金は貯金することができますが、時間は貯金することもできなければ、利子が増えて、一日が25時間になることもありません。したがって、昨日使わなかった時間を今日に持ち越して使うこともできないし、明日の時間を今日使うこともできないのです。

私は、本書を書き始めたわけですが、過ぎ去った昨日の時間を使って書くことはできないし、まだこぬ明日の時間を使って書くこともできません。私に使える時間は、今日の24時間しかないのです。

そのために、今、私は、一字一字を書いているのです。そして、この一字一字が、金色の文字となって、読者の胸に溶け込むかどうかは、私が、一日24時間のなかの一秒一秒をいかに使うかにかかっております。一日を黄金に変える魔術は、私にとっても、この一秒一秒をいかに使うかにかかっているのです。

 

一日は、言うまでもないことですが、24時間からなっています。一時間は、六十分。そして、一分は、六十秒。ストップ・ウォッチを片手に、毎日を生きている人はいないでしょうが、本人が意識しようがしまいが、人生の時間という名の砂は、砂時計のように、毎秒、サラサラと流れ落ちてゆくのです。

万人にとって、一日24時間が与えられており、無一物(muichimotsu)で生まれてきた赤ん坊は、時間の使い方次第で、他の人とはまったく違う人生を歩んでゆくことができるはずです。ですから、人生を、黄金に変える魔術は、時間を人生の質に変える秘法だとも言えるのではないでしょうか。

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2.「時間のなかの真理」

あなたが考えつく限りのすべてのものを、すなわち、善も悪も、美も醜(shuu)、真も偽も、ありとあらゆるものを包含しつつ、時間というものは流れているのです。あの天の川(ama-no-gawa)の流れのなかに、さまざまな星の生命が光っているように、時間の流れのなかにも、個人の人生のすべての要素が、あるいは、人類の歴史のすべてが、一切合切(issai-gassai)が含まれているのだと言えます。

もし時間の流れというものを、手に取って眺めることができるならば、多くの人々は、おどろくでしょう。時間の流れという細長いチューブのなかに、ありとあらゆるものがぎっしりとつまっていて、まるで、見て下さいと言わんばかりにひしめき合っている。その姿に、びっくりするはずです。

私は、単なる比喩(hiyu)を言っているのではありません。あなたがたが実在界に還れば(kaereba)、そこには、「アーカーシャーの記録」(アカシック・レコード)というものがあります。そして、それを読み取る力のある人が見れば、人類の歴史は、まるで手に取るがごとく分かるのであり、また、ほとんどの人は、人類の秘史におどろかされるはずです。

このアーカーシャーの記録は、如来界(nyorai-kai)以上の人でないと、読めないことになっています。つまり、八次元、あるいは、九次元の住人でないと、この記録を閲覧(etsuran)できないのです。なぜならば、人類の歴史を知るということは、仏の計画を知るということであり、人類の未来社会の見取図(mitorizu)まで分かってしまうため、世人(sejin)のだれもが見るというわけにはいかないからです。

近代で、生きながらにして、このアーカーシャーの記録を実在界で見て来た人としては、十八世紀の北欧(hokuou)の神秘家・スウェーデンボルグがおります。近年では、人智学のルドルフ・シュタイナー。両者とも、八次元如来界の人です。古くは、イエス・キリストの時代に、「黙示録」(mokusiroku)のヨハネが、光子体離脱(koushitai-ridatsu)をして、つまり、生きながらにして魂が肉体を抜け出して、アーカーシャーの記録を見て来て、それについての報告をしております。ヨハネもまた、八次元如来界の人です。

ただ、このアーカーシャーの記録は、文字に書かれた一冊の書物ではないため、だれもが同じ理解をしているというわけではありません。許可を受けると、その記録が、立体映画のように眼前(ganzen)に展開されるのですが、見る人の悟りの段階に応じて、理解できるようになっています。たいていは、象徴的なピクチャーを見せられて、そこから、各自が感じ取るわけです。「黙示録」のヨハネが見て来たという、新約聖書(shinyaku-seisho)にある人類の未来図も、ひとつの象徴であって、完全なビジョンではなかったと言えます。ただ、彼が見て来た人類の終末的様相は、この二十世紀末から、二十一世紀初めに人類を襲う(osou)ことになっている危機的状況のビジョンであったことは真実です。

現在、八次元では、エリヤ、「黙示録」のヨハネノストラダムスなどが、アーカーシャーの記録を管理するという仕事をしております。そして、九次元宇宙界で、この記録の鍵(kagi)を持っているのが、ゴータマ・シッダールタ釈尊)やイエス・キリストです。

このように、時間というものは、単に三次元の時計によって計られるものではありません。時間とは、実在界のアカシック・レコードが回されるときに奏でられる音楽のようなものなのです。

たとえば、二時間のクラシック音楽をレコード盤に刻んでしまうと、二時間という時間が、ひとつの静止した物体のなかに閉じ込められてしまいます。そして、レコードを回転させることによって、それが再現されるのです。ですから、もし、レコード盤の盤上にある刻み(kizami)を見ただけで、二時間分の音楽を看取することができる人がいたならば、その人にとっては、二時間のメロディーが、一瞬にして全曲を聴いたのと同じように分かってしまうはずです。ただし、普通の人は、そうはできないので、レコード盤をゆっくり回転させて、二時間たっぷりかけて、曲を楽しむのです。

人類的な時間の秘密、歴史も、ここに理解の鍵があると言えます。つまり、過去の歴史とは、すでに回転を終えたレコード盤の何枚かなのです。未来の歴史とは、まだ回転させないでいるレコード盤なのです。通常人であれば、これが曲として演奏されなくては、どんなものかが分かりません。しかし、盤面を見ただけで、一瞬にして、曲全体を読み取る能力者にとっては、人類の未来がかなり明確に分かってしまうということなのです。

このアカシック・レコードは、人類的なものだけではありません。個々人の魂の記録も遺っているのです。これがすなわち、各人の「想念帯のテープ」です。そして、高級霊ならば、生きている人の想念帯のテープを看取して、過去・現在・未来という、三世(sanze)を見通すことが可能です。これが、時間のなかの真理なのです。

 

↑↑↑↑↑

 

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いかがでしたでしょうか????( ٥ ›ω‹ )

 

ちなみに、この本は20世紀の後半に説かれたものです。

宗教的意味が盛り込んだ「時間の正しい考え方や使い方のガイドブック」となっております。

また、最近のコロナ感染の件において2020は危機的状況であることを以前、投稿した記事「ニッポンのいま」にてしましたが、この書籍にもちゃんと書かれていることが分かります!つまり、予言的中です!!ノストラダムスの戦慄(senritsu)の啓示がよみがえった感じがしなくもありません。

みなさんは、どの部分が面白かったですか??!!!(ू•‧̫•ू⑅)

 

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20/04/25

 

ご講読ありがとうございました。

「コメント✉️、イイね❤️、フォロー👍」をよろしくお願い致しまする。

以上、丸々でした〜 次回もお楽しみに🍍

 

※5/21~5/24はお休み

「時間」とは何か <前編>

みなさん、ボンジュールノ(っ ‘ ᵕ ‘ c) 丸々です!!

 

今日のお話は「宇宙論」のなかの「時間論」をテーマにお話します(^m^ )クスッ

話の内容と致しましては、面白くてワクワクしますが、反面、頭がこんがらがる可能性もなくはありません。そうした意味で、ちゃんと理解すれば分かります!つまり、普通に理解すると難しいです。。

今回はザックリとしたテーマですが、「時間」について個人の見解とそれから経典つまり書籍から抜粋してお送り致します!!

 

まず、個人の見解における「時間」とは、2つの観点があります。

まず、一つは科学的な観点で、学者さんがおっしゃるように「初等幾何学におけるポリトープがございます」それは何かと言いますと、

👉例えば二次元多面体は多角形、三次元多面体は通常の多面体である。多辺形や多面体のときと同様、「中身の詰まった」(solid) な n-次元多面体だけでなく、一般にはその境界である (n − 1)-次元図形を指して n-次元多面体と呼ぶことが多々あるので、文脈に注意すべきである。

超多面体の更なる一般化として、非有界な超無限面体(英語版)や、曲がった多様体の三角形分割(英語版)や単体分割あるいは空間充填(例えば、球面多面体(英語版)、および集合論的な抽象多面体(英語版)などが現れる理論もある。🤜

というような理論です。この3次元においては「プラトン立体」(ガロア群を使って証明したとされる正多面体が5つしかない3次元立体のこと)や「アルキメデス立体」(それらを上手く規則的に変形させた立体)のことです。4次元においては「多胞体」という存在があって「アルキメデス立体」や「プラトン立体の拡張?」があるのではないかと僕は思います。

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🔼が球体を含んだ「プラトン立体」、🔽が「アルキメデス立体」

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これはどういうことか???!!

と言いますと、以前の記事『あの世って存在するの?!』でもご紹介しました通り、本では「3次元の図形の要素には縦・横・高さしかない。今度は次元を一つ加えると4次元の図形は縦・横・高さに時間の要素が加わったもの」とされております。そう考えると、我々が生きてるこの世界は3次元の要素で測られた世界ですけれども、そうした空間の要素に「あの世にしかない時間の要素がある」ということによって、「時間と空間」が宇宙に蔓延しているということなんです!!

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相対性理論にも光速を超えたもの(霊速)があり、そうなると過去も現在も未来も(三世)を見通すことができるので、実際のデータでは何万光年先にある星を観察すると、そこで光ってるあの星は現在から何万光年前の星であるということなので、霊速があると一瞬にしてその世界にすぐ行けるということですと、過去=現在になって、その差分によって現在=未来へと等価原理を工夫してそうなるのだと考えられると思います。ちなみに、幽霊さんもこの霊速という機能を持っています。これは霊という名を持つほんのその一部であります。

 

「時間」に関するもう一つの観点と致しまして、今我々が生きているこの世界の時間とは「進む時間」です。しかし、逆発想で考えると「止まる時間」「退く時間」も存在する。そして、「早まる時間」と「遅くなる時間」(スローモーション)も現実的に存在するのではないかと考えられる。

まず、「止まる時間」とは何かについてご説明します。我々が生きているこの世界は丁度、電球が周期的に点滅して連続でパパッと光っているスクリーンを眺めていると、そのスクリーンが我々が生きているこの世界であって、その光の部分ではなく、影の部分を見るとその世界は「時間が止まった世界である」ということです。そして、そのスクリーンを見てる映画館の外の世界は前回実際にあると証言致しました「あの世」の世界です。

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そして「退く時間」は我々が生きてる世界が「正宇宙のなかでしかない」と考えるならば、歯車で回転することとは逆向きに回転する歯車の世界は「時間が反対方向に進む世界」でこれが「反宇宙ではないか」と考えます。

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また、「早まる時間」や「遅れる時間」もパラレルワールドという無限に存在する宇宙が数多くあるなかで、その中の一部分を我々の世界から観察すると、Aの世界では相対的にゆっくりだったり、Bの別の世界では早かったりすることがあるかもしれません。

パラレルワールドという世界は、あなたがなりたかった自分やなりたい自分、あの時にやりたかったな〜、あれやりたいこれやりたいと思ってる自分がいたとして、その世界ではどうやらもう叶えられている世界。もう向こうの世界では現実としてそうなっている世界がパラレルワールドです。つまり、あの世とは違う理由はそこにあるのです!実際に、あの世も現実としてあり、パラレルワールドも現実です。違う部分は何かというと、物質世界としてありとしあらゆるものがパラレルワールド、精神世界があの世ということです。

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そして、時間の使い方を駆使することで「富」が蓄積され、これが「お金と時間」のエネルギーの変換作用としてあるのではないかとも考えられます。経典のなかでも「時は金なり、金は時なり」とあり、「富の法」で「豊さとは何か」を中心に説かれております。その話ができるのはかなり先の話でnoteで投稿すると思うので、お楽しみに( ⸝⸝⸝ ᐢ ᵕ ᐢ ⸝⸝⸝ )

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ここまでが、私が哲学的思想としてあるところの「丸々の時間論」です。(個人的見解としてはここまで)

続いて、「存在と時間」についてご紹介していきます。これはハイデガー存在と時間』を発展した教えとして説かれております。『太陽の法』ではこのように書かれております。

 

↓↓↓↓↓

人間は、この地上に生まれて以来、あの燦々(sansan)と光を投げかける太陽のもとに、さまざまの存在を見たり、生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものを見てきました。そこに、ひとつの真理であるところの、普遍(fuhen)の法則があることを私たちは見抜かなければなりません。

そして、その法則こそ、生々流転の法則(shoujou-ruten-no-housoku)なのです。この世に存在するものはなんでも、すなわち、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべて、この生々流転の法則の支配下にあります。

では、生々流転の法則とは、なんなのでしょうか。それは、この地上のものには誕生のときがあり、生長のときがあり、衰退のときがあり、そして、消滅のときがあるということです。

たとえば、人間をとってみてもそうです。人間には、誕生のときがあり、成人してゆく過程があり、老化してゆく過程があり、やがては、死去するときがくるのです。

この法則は、自然のもの、人工のものを問わず、すべてのものにあてはまります。たとえば、自動車一台とってもそうです。自動車が生産されるときがあり、それが有効にのり廻される(mawasareru)ときがあります。しかし、そのうちに故障しはじめ、ついには、廃止されるときにいたるわけです。植物にしても同じです。種をまくと、芽が出て、生長してゆき、花が咲きます。咲いたあとは、枯れはじめ、種、あるいは、球根のみを残して、地上から姿を消してゆきます。

このように、この3次元世界にあるものはすべて、原型の誕生ーー発育、または、フル稼働ーー衰退、または、不調ーー死滅、または、解体という四つの過程を必ず経ることになります。

別の言葉でいうならば、この三次元現象世界の存在は、すべて変転の時間を内包しているのだともいえます。すなわち、静止した存在はありえないのです。すべての存在は、変転を前提としてあることを許されているともいえます。

しかし、変転、あるいは、流転(ruten)を条件づけられているこの世の存在とは、時間という映写機によって投映をくり広げられているフィルムだともいえます。つまり、存在とは、そのなかに流転するという性質ーー時間を内包しているのです。

もう少しわかりやすくいうならば、この世のものは、すべて時々刻々に変化をしており、まったく同じ状態であることは不可能だということです。たとえば、私たちの肉体細胞をとってみても、昨日の自分と、今日の自分とを比較するならば、まったく同じ状態ではないのです。

しかし、日々変化する肉体細胞によって構成されているわけですが、その人の姓名(seimei)で称されている実体があるのです。その肉体細胞を統一している実在があるということです。

すなわち、時間の流れのなかで流転する存在の背後には、永遠に変化しないなにかがあるのです。

人間にして然り(shikari)、動物にして然り、植物にして然りです。

たとえば、植物を一本の花たらしめているものは、まったく偶然に集合した植物細胞ではありません。もし偶然に集積した植物細胞が、今日という日の一本の花を形づくっているならば、日々流転し、変転するという法則のもとでは、その花は、やがて花以外のなにか別のものに変わってゆくのが本当です。

しかし、やはり花は、花にしかすぎません。昨日も花、今日も花、明日も花。花としてのあり方が変化するだけで、花が花以外のもの、たとえば、動物とか、人間とかにはなりえないのです。

また、菊の花が途中でチューリップになることもなければ、チューリップが突然コスモスになることもありません。チューリップの花は、あくまでチューリップの花としてその一生をおえていくのです。

そこには、変化のなかに変化しないなにか、流転のなかにあって流転しないなにかがあるのです。そして、このなにかこそが、あるときは実在といわれ、あるときは理念といわれ、また、あるときはイデアといわれるものなのです。

色即是空(shiki-sokuze-kuu) 空即是色(kuu-sokuze-shiki)」という、仏教の有名な言葉があります。この言葉も、私が述べてきた、変化の背景にある不変なるものの実在、普遍的なる存在が投映されて、流転するこの世的存在となっていることを道破(douha)した真理の言葉なのです。

私たち人間は、時々刻々に変化する、たよりない肉体細胞の集合体をもって「人間」と称しているのではありません。人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなくて、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命(inochi)であり、魂であり、霊であります。

私は、」という言葉でもって、摩訶不思議な特異現象をさしているのではありませんそれは、人間の本質であり、不変の実在であり、生命のイデアなのです。

肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体。これらが、人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を、もとうがもつまいが、真実はひとつなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。

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20/04/23

 

いかがでしたでしょうか?>! ちょっと全体的に難しいですよね🙀

 

この世にあるものは、時間の川の流れで流れていくと、会社や商品もすべて焼却されていきます。この世にとどまるものは長い時間をかけて見れば、存在しないのです。それは地球がなくなる時期に近く宇宙の歴史を見れば分かるでしょう。つまり、存在するものはあの世へ戻ってきてしまうのです。

 

「生々流転の法則」というのは「宇宙の理法」のなかの一つだと考えられます。また、それは「宇宙の12の法則」を超えたものだと考えてもよいのではないでしょうか。「宇宙の理法」の代表的な法則は「原因と結果の法則」(因果の理法)や「引き寄せの法則」「波長同通の法則」「代償の法則」などがあります。そのなかのひとつがそれです。

また、この内容のすべては「霊界科学を証明する重要参考資料だ」とウワサされております。「霊の存在や霊界が本当にあるなら、証明できるんですか?」という問いに対しては、こちらの記事をご覧し、今後、未来の青年たちが証明する可能性があります。

ちなみに、「イデア」というのはプラトンの「イデア論」をYouTubeや本などでご覧頂くと分かります通り、「洞窟の比喩」に例えた「あの世の世界を分かりやすく捉えたシーン」があり、そこでは洞窟のなかの門番が村人たちを操り人形のように支配し、門番が電球を壁面にかざして、村人がみてるのはそのライトに投映された自分の影を見てることにしか気づかない。これが「村人が思っている本当の世界だ」と間違った教え方をされているのだが、ある一人の村人が門番の下敷きから解放されて、洞窟の外に出たときに、太陽がさんさんと輝いていて、山々や見たこともない虫もいたので、「本当の世界はこれだった」という真実を知ったときに元の洞窟の場所に戻って、村人たちに説明したら「意味わからない。私たちが見ているのは幻想だったのか」ということになる。

要するに、唯物論」とは今目の前にある物体が本当なのだから、目に見えないものは存在しないとする考え方のことです。

しかし「霊界がある」と信じられているその証言のなかには「唯心論」がございまして、これが「唯神論」と深い関わりを持つとされています。以前の説明でも「この世は仮の世界であり、あの世が本当の世界」といいますのは当然のことです。「イデア」というのは我々が見ているすべての物体は実はあの世でも当たり前に存在しています。

では、パラレルワールドではどうなのか???

 

これについては次回の「時間とはなにか<後編>」でご説明致したいと思います!!(ΦωΦ)

 

みなさんはどれが「スゴイ!!」「グッとくる」と思いましたか?!不思議ですよね(笑)

 

コメントをお待ちしております。また、次回もお楽しみに!

ご精読ありがとうございました。

丸々以上です〜

 

不幸を愛するあなたへ

HELLO〜 EVERYONE!! 丸々です(*^^*)

 

今回お話させて頂くテーマは「幸福になれない症候群」と題しまして、いかに幸せになれるか、その方法論であります。前回の「自己顕示欲に悩むあなたへ」の総集編になっております。

 

世の中には人身事故やいじめや自殺が頻繁に多い現代社会ですが、もし身近な友人や知人の中で、そういう方がいらっしゃるのでしたら、該当なされる方がいらっしゃいましたら、このテーマの内容をご覧なされると幸いです。

ちなみに、「幸福」も「幸せ」も本来は同じ意味です!ただ、歴史を遡ると古代ギリシャでは解釈が違うということがあります。これについては後ほどいつかご紹介しておきたいと思います。

 

では、早速、不幸から幸せを心から愛する方法と致しまして、『「幸福になれない」症候群』(グッドバイ ネクラ人生)には次のように書かれております。

↓↓↓↓↓

 

1. 「幸福になれない」症候群とは

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私はこれまで、数多くの人のさまざまな悩みに接してきました。その結果、「人びとは『幸福になりたい』と思いつつ、その逆のことをしている場合が多い」ということに気づいたのです。

そうした人びとのことを、私は「幸福になれない」症候群と呼んでみたいと思います。それは、表面的には真剣に幸福を求めているにもかかわらず、実際に思うことや行うことにおいては、結果的に自分が不幸になる方向へと、自ら選択している人びとの姿なのです。

「なぜ、そうしたことが起きるのだろうか」と、つくづく考えてみたのですが、結局、次のようなことに思い至りました。

「多くの人は自分の姿が客観的に分かっていないのではないか。どのような行動をとれば、どのような結果になるのかが、分からずにいるのではないか。その結果、みすみす自分が不幸に陥る(ochiiru)選択をしてしまうのではないか。ほんとうは『幸福になりたい』と思っているにもかかわらず、結果的に人生が悪い方向へ、悪い方向へと行くように選択しつづけているのではないか」

こうした人びとは、まさしく、「幸福になれない」症候群と名づけて間違いのない人びとだろうと思います。

そして、この「幸福になれない」症候群の人が現代人のなかにどれぐらいいるかを考えてみると、おそらく、八割から九割の人がこの症候群にかかっているのではないかと思えるのです。現代人たちは、まるで緩慢(kanman)な自殺行為をくり返すかのように、不幸な方向へと、不幸な方向へと、みずから好んで進んでいるように見えます。<略>

私の目から見て、そうした人びとは「不幸を愛している」としか思えないのです。何ゆえにそれほど不幸にこだわるのか、何ゆえに不幸という名の女神を愛するのか、何ゆえに貧乏神への信仰を続けるのか、私にはまったく分かりません。

そこで私は、ごく簡単な方法で、読者のみなさんに人生の秘訣を披露しようと思います。本書に盛られた数多くの症例のどれかに、あなた自身もきっと当てはまるはずです。そうしたあなたのために、この書物は書かれたのです。

自分の不幸を願っている人など、どこにもいないにもかかわらず、自分の不幸をみずから選んでいく人々が存在することは事実です。このような人びとは、間違った思いに基づいて間違った行動を選択しているとしか思えません。

自分を愛しているつもりでいながら、実は自分を痛めつけているのではないか、自分を責めさいなんでいるのではないか、自分を十字架にかけようと一生懸命に努力しているのではないかーー私の目にはそう見えるのです。

本書では、一般的な「幸福になれない」症候群をはじめとして、女性・家庭の「幸福になれない」症候群、サラリーマンの「幸福になれない」症候群、信仰に関する「幸福になれない」症候群を取り上げてみました。

それらはすべて、何らかの固定観念にとらわれて、みずからの運命の開拓ができないままに苦しんでいる人びとの姿なのです。

私は本書において、知的な立場から人生の秘訣を説くことに努め(tsutome)、それに成功したと思っています。単なる独断や思いつきではなく、あくまでも知的に、さまざまな経験をまとめ上げ、一定の処方箋を下したのです。<略>

 

2. ネクラ型思考

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以前、「ネクラ」「ネアカ」という言葉が流行ったことがあります。ネクラという言葉は「根が暗い」という意味、ネアカという言葉は「根が明るい」という意味で使われていたようです。

多少、古くなった言葉かもしれませんが、私はこの言葉を使いたいと思います。なぜなら、私には、いわゆるネクラ型の発想をしている人が数多くいるように見えてしかたがないからです。何ゆえに、物事をそれほどまでに暗く考えていくのでしょうか。まったく不思議なことです。

人生の秘訣の一つは心の操縦法にあります。人間には自分の心を統御することが許されています。しかも、自分の心をどのように統御するのかについては100パーセントの自由が認められています。人間は他人の心を操縦することは不可能に近いのですが、自分自身の心を支配することにおいては全権を委ね(yudane)られているのです。

それにもかかわらず、何ゆえに自分の心を不幸一色に染め上げてしまうのか、私は不思議でしかたがありません。

私は、ほんとうは一人ひとりを呼び止めて、次のように言ってみたいのです。「あなたのその考え方は、自分自身を不幸にする考え方なのですよ」とーー。<略>

そうした人たちは、自分自身を緩慢な自殺へと追い込むような考え方を、みすみす自分に許しています。そして、自分がさらに暗くなる方向に進んでいるのです。

それは、たとえば他人の言葉の受け止め方ひとつにも表れてきます。他人の言葉を、不幸な方向に受け止めていく人がいます。他人が何気なく発した言葉を、自分にとって非常に都合の悪いもののように受け止め、何年も苦しむ人がいるのです。

こうした人は心の傾向性が暗い方向を向いているとしか言いようがありません。そのため、あたかもジェットコースターが坂を下るときのように、何も努力しなくても、自然に下のほうへ向かって走りはじめるのです。<略>

他人の成功をうらやんでいて、自分が幸福になることは絶対にないのです。なぜなら、人間は本来、潜在意識に一つの理想像を持っているものですが、その理想像は、肯定しなければ決して現実化してこないからです。

成功者をうらやみ、言葉で明確に否定することは、自分の理想像を破壊することになります。そのため、身の回りにいる要領のよい人や、チャンスに恵まれた人のことを悪く言っていると、自分にはチャンスが回ってこなくなるのです。<略>

しかし、悪い運命の暗示にかかって生きていくことは非常にばかげています。人間は心の用い方によって、どのようにでも運命を克服し、操縦していくことができるのです。

運命がまったく存在しないとは私は言いません。ある程度、人生の筋道は決まっているかもしれません。しかし、そのなかを、どのように舵取り(kajitori)をして生きていくかは、各人に委ねられているのです。

自分で運命の舵取りをせずに、他人の暗い予言などを丸ごと受け入れて生きていくのは、非常に不幸なことです。ここにも、「幸福になれない」症候群の人の姿があります。<略>

「不幸を愛する」ーーこのような心理的傾向性に対して、私は警鐘(keishou)を鳴らしておきたいと思います。そうした傾向性を持っていたのでは、いつまでたっても幸福な人生は訪れてこないのです。

 

3. 不幸からの離陸(テイクオフ)

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それでは、不幸からの離陸(テイクオフ)を果たすためには、どうすればよいのでしょうか。

その前提として大切なのは、現在の自分の心の傾向性をつかむことです。自分がいま、「幸福になれない」症候群という、精神的症候群のなかにあることを、まずしっかりとつかむ必要があります。

そうした症候群にかかっている病人であるにもかかわらず、自分を健康人だと誤解しているからこそ、問題が起きてくるのです。

したがって、自分の心が不幸を引き寄せる傾向性を持っていることを知らなくてはなりません。不幸からの離陸のためには、まず、自分の心の傾向性、不幸を呼び込む傾向性を知ることが大事です。

「なぜ」「何ゆえに」という言葉を発する前に、ありのままの自分、裸の自分を、しっかりと見つめてみることです。そうすると、「こうしたところで自分は不幸を呼び込んでいるのだな」ということに気がついていきます。<略>

不幸からの離陸をなすためには、まず、みずからの「不幸になる傾向性」をいち早く察知したならば、次に、傷口をそれ以上広げないための対策を立てる必要があります。

その対策を立てるためには、自分がいま持っている人生観よりも一段高い優れた人生観を学ぶことが大事です。「一段高い優れた人生観を持っている人ならば、私の不幸感覚、運命の傾向性を、どのように克服していくだろうか」ということを学ばなくてはなりません。<略>

自分の心を本来の立場、元の位置に戻すための、心の操縦法の研究、探究が大事になります。そのためには、数多くの考え方を学ぶことが必要です。<略>

 

4. グッドバイ、ネクラ人生

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この言葉は「不幸からの離陸」よりもさらに進んだ境地を指しています。単に不幸という名の大地から車輪が離れて飛行機が飛び立つだけでなく、青空に向かって上昇し、高度一万メートルの上空をすいすい飛んでいるような心境を維持するということです。

そのためには、不幸経験を分析していくつかのパターンに分け、そのパターンを認識することです。「このパターンに陥ると、このような不幸な人生が始まっていく」というパターンの研究をするのです。そうしたパターン認識を事前にしておいて、自分にその兆候が現れてきたならば、「私もこのパターンに入ってきたな」と点検することが大切なのです。

不幸という名の大地から離陸し、青空のなかを飛び続ける飛行機となって、「グッドバイ ネクラ人生」と言えるためには、どのような人生になればよいのでしょうか。

それについて、私は次の四つの場合をあげたいと思います。<略>

第一の状態:毎朝起きた時に、「人生は素晴らしい」と言えること

ネクラ人生と訣別したかどうかは、その人の朝にかかっています。朝起きたとき、「人生は素晴らしい」と思えるかどうか、自問自答してみてください。

朝起きたとき、「ああ。きょうも、いのちがあって良かった。新しい一日になりそうだ」ーーこのように思えるあなたであれば、まさしくネクラ人生にグッドバイして、幸福な道を歩んでいると言えます。

ところが、世の多くの人々を見てください。朝起きて、「素晴らしい一日が始まる」と予感できる人が、どれだけいるでしょうか。「また、いやな仕事が始まる」「また、妻と顔を合わせなければならない」「また、きらいな人と会わなければならない」「きょうも一日が長いだろう」ーーこのようなことばかり考えている人が多いのではないでしょうか。

「グッドバイ ネクラ人生」のための第一歩は、朝起きて、「きょうも素晴らしい一日が始まる」と実感するところまで努力することなのです。<略>

第二の状態:からだ全体に力がみなぎり、何かをしたくてしかたがないということ

幸福とは一種の心象風景であり、心がどのように展開するかによって幸福の現象が生まれます。毎日、体力や気力があふれてくる状態を維持できることが、実は幸福な人生を生きていることそのものなのです。

したがって、そうしたガッツやバイタリティーが出てくるかどうかを、自己点検していただきたいと思います。それは単なるカラ人間ではなく、腹の底からふつふつと湧いてくるような活力やバイタリティーでなければなりません。<略>

第三の状態:他人が素晴らしく見えること

他人が素晴らしく見える人は、その人自身がすでに素晴らしい人なのです。そうした人は幸福な人生を歩んでいると言ってよいでしょう。

「他人のあらや悪いところばかりが見えてしかたがない人で、幸福になれる人はいない」と思って間違いありません。なぜなら、そうした人は、悪人の巣のなか、つまり、その人を害そうという思いを持った人びとの群れのなかに生きていることになるからです。

そうした、人生観を持っている人には、幸福な人生が開けてくることはありません。

すなわち、ネクラ人生にグッドバイできたと言えるためには、「他の人びとが素晴らしく見える」ということが必要なのです。

一日のうちで少なくとも一人や二人は、「本当に素晴らしい」と思える人に出会えること、あるいは、他の人のよい思いや行ないを素直にほめられる心境になることが大事だと思います。

第四の状態:「自分自身のためではなく、より大いなるもののために自分が生きている」と実感できること

自分のためだけの人生ではなく、「自分の生き方が、より多くの人の幸福に役立っている」と実感できるとき、換言すれば、「世の中をユートピアにしていく運動の一翼(ichiyaku)を担っている」と実感できるとき、その人は幸福だと言えるのです。

「自分に素直に、自分に正直に生きているなかで、世の人びとを喜ばせ、幸福にすることができる」という実感が得られるとき、人間は最高の幸福の状態にあるとも言えるでしょう。「自分の生き方、自分の生きざまが、他の人びとの幸福のために多少なりとも力になっている」と実感できることが非常に大切なのです。

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っということで、長かったですが、、いかがでしたでしょうか?

 

私がこの投稿を書いて思ったことは「自制心」(自分を制御する)はとても大事な考え方なんだなと思ったことと「未来は明るい」と信じ続けること!それは今の感染の先の時代でもそうですが、個人が何か「悩み」を持っている時でも、それは解決され、明るい人生を渡り歩くことができるということです!!

みなさま、感染には負けてはなりませんよ😠❗️❗️これは「信仰心」が解決の手口になります。あとは、心の問題をいかに解決するかだと教わっております。

 

ところで、この症候群の特徴と致しまして本書では、、、「他人の成功が妬ましい人」「やる気の起きない人」「自分がいつも人から害されていると思う人」「人の輪のなかに溶け込めない人」「人に信頼されない人」「頭の悪さを嘆く人」、、、などが書かれております。こうした事例において、結局のところ、潜在意識で失敗パターンを持つ人生観から脱皮して、自分のパターンに始めて気づくことが大事だと説かれております。

 

まー、そんなところです。

実際に、私が投稿した記事の数々はかなり貴重な高付加価値があり、「信仰と宇宙」をテーマにほとんど毎日発信しております。

 

今回ご紹介しました「幸福になれない症候群」の克服法や以前ご紹介した記事においても、皆さんが心に響く内容は全て「仏法真理」の一部始終として「心について」「成功の条件」や「自己顕示欲」についてもご紹介しました。その実例と致しまして、『太陽の法』ではこうあります。

👉仏法真理とは、仏の心、仏の掟(okite)、仏の生命の流転(ruten)のことです。そしてまた、人類の過去、現在、未来をおりなす一本の黄金の糸のことを意味します。

っっというように、まとめることができますので、信仰即伝道のためのブログを公開しております。

 

「仏法真理」は仏そのものとも言われておりますし、「仏」「法」「僧侶」の「法」が全人類が共通している「心の法則」であります。そして、地球上の全人類だけではなく、地球外生命体の宇宙人にも心が存在する。そういう意味で、銀河系を含む無量大数の人々は同じ「宇宙の理法」がつかさどるのではないかと考えられます。

今回の「症候群」とは違って、「幸福」にも次のような法則があります。

では、「仏法真理」のなかの「心の法則」には何があるかというと、実は「人間が幸せになることも全人類共通の法則があり、幸福には四つの原理(愛・知・反省・発展)がある」と言われています。詳しい話は、また今度ご紹介して行きたいと思いますネ!

 

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20/04/23

 

みなさんで、幸せな夢の輝かしい未来を作って生きましょう!!

みなさんの「コメント✉️、イイね❤️、フォロー👍」をお待ちしております。また、明日(asu)もお楽しみに😆

ご精読ありがとうございます٩(´꒳`)۶

自己顕示欲に悩む「あなたへ」

みなさん、HELO〜⸜( ॑꒳ ॑ )⸝ 丸々です!

 

今回お話させて頂くテーマは「自己顕示欲」についてです🐥

みなさんは、ワガママになったり、やりたいことに集中してうぬぼれる時や、自分のためさえよければいいと思ったり、自己主張が強かったり、周りはどうでもいいようになったり、自信過剰になったり、世界は自分中心に動いているというような考え方になったことがあるかと思います。

僕も「自己顕示欲」は強く、その原因を自分なりに振り返って見ますと「自己認識が周囲以上に高くなる自己満足の心」これは「自我の強さ」そして「慢心」(周りより僕が一番とか偉いと思う心)にあります。すると、相手から見たら近寄りたくない気持ちになると思いますし、それから、自分に対しては「欲深さで自分自身に心の病気を作ってしまう」ということ、これが「自分と周りに線引きができて苦しみを作ってしまう原因」になるんです。

 

以前も「苦しみの取り除き方」についてご紹介しました。その克服方法も私の記事をご覧いただけると分かります。やはり「捨てるべきことは捨てて、過去にとらわれない新しい自分を探すこと。世のため人のために尽くせる人生計画を立てることが大事です!!」やりたいことをやる人もブログを真剣になされている皆さまはスゴイなと感動してしまいます。でも、それが「相手を害するもの」だったり「自分自身にあれが欲しい、これが欲しいということで、本当の自分を見失っているのではないか」というところを点検して、身近な人々や新しく出会う人々、この環境下における「感謝の心」を忘れず、僕も足りないところだけなので、毎日、このブログを通して精進して行きたい気持ちでありまスル!結局「自分のためだけでなく、世のため、人のため、そして神仏(主)のためにやるべきことをやる!」なんです。苦しみの原因のほとんどが他様に愛されたいという気持ちからきているのです。その欲求を満たすためであるから不幸になっていくと教わっております!ですから、「愛する側として、何ができるか」をこの観点から照らして反省していくことが大切なのではないでしょうか。

 

さて、そういう意味で、「自己顕示欲とは何か」ということですが、weblio辞典では次のような注釈となります。

👉「自己顕示欲」とは、、周囲の人々から注目され、そして認められたい、という欲求のことである。往々にして「第三者の目には不自然もしくは分不相応と映る過度の自己主張」というような否定的なニュアンスを伴うということです。

この「愛されたい」という欲求は「奪う愛」であり、「与える愛」という見返りを求めない愛が本物の愛なのだとも教わっております!

こうした自己顕示欲は歴史上の偉人や芸能人の間でも出てくる大きなテーマなのではないでしょうか?経典『「幸福になれない」症候群』では次のように書かれております。↓↓↓↓↓

 

1.自己顕示欲の発生原因

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自己顕示欲で悩む人は世の中に数多くいますが、おもしろいことに、自己顕示欲には実は二つの側面があるのです。一つは悪い面、マイナスの面ですが、もう一つは、よい面、プラスの面です。そのため、ひと口に自己顕示欲といっても、そのどちらであるかを判定するのは非常に難しいところがあります。歴史上の英雄や偉人たちで、自己顕示欲のなかった人は少ないのではないでしょうか。彼らの多くは何らかの意味で自己顕示欲を持っていただろうと思います。それゆえに、この自己顕示欲の問題には、きわめて微妙な面があるのです。

そこで、私はまず、自己顕示欲の発生原因について考えてみたいと思います。自己顕示欲はなぜ出てくるのでしょうか。また、自己顕示欲は、本来、罪なものなのでしょうか。

自己顕示欲の発生原因は主として二つあります。

第一の原因は、人間は個性を持っているということです。

人間は仏から分かれてきた魂であり、仏の子です。その点において、万人は平等だと言えます。しかし、仏の子であることにおいて万人が平等であるとしても、もう一方で、人間にはそれぞれ個性が与えられているという事実があります。これをどう説明すればよいのでしょうか。

各人に個性があるということは、違いが強調されているということであり、その個性が守られているということは、それぞれの人が違いを出してよいということを意味しています。この部分が、人の目を引こうとする自己顕示欲の出発点になりやすいのです。

このように、自己顕示欲の根源の一つには、各人に個性が与えられているという事実があり、人間にはその個性の違いを強調する傾向があります。したがって、自己顕示欲自体は悪とは言えないのです。

人間が個性を光らせるということは、花壇に咲く花たちの姿のようなものだとも言えるでしょう。花壇の花たちは、よりいっそう背丈(setake)を高くし、よりいっそう美しい花を咲かせようとして、互いに競い合っているかに見えます。その意味において、花にも自己顕示欲があるのかもしれませんが、それを責める人はいません。

結局、自己顕示欲自体が悪いのではなく、その調整の加減が問題なのです。

自己顕示欲の発生原因の一つとして、「人間は一人ひとりが個性ある存在である」ということをあげましたが、第二の原因は、人間には「優れたものになりたい」という意志があることです。「重要な人物になりたい。重要感を持ちたい。人に認められたい」という気持ちは、人間の根源的な欲求であり、否定しがたい感情なのです。

こうした感情がなければ、人は世に立って仕事をしていくことが、ある意味で不可能になります。それぞれの人間が尊厳を持ち、「重要感を持ちたい」と考えていることが、実は社会の原理にもなっているのです。

自己顕示欲の奥にある、重要感を求める気持ち、「人に認められたい」という気持ちは、魂の奥底にある願いでもあります。人間の魂は、その根底に、「発展したい」という願い、そうしたエネルギーの方向性を持っているのです。

このように、人間に個性があること、そして、人間の魂のなかに、「常に向上し、他の人に認められる存在となりたい。より偉大なるものへ脱皮したい」という欲求が本来的にあること、この二つが自己顕示欲の発生原因となっているのです。

 

2. 他の人を害していないか

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「自己顕示欲は、人間の魂にもともと備わっているものである以上、否定できないものであり、しかたのないものである」と考えて人もいるかもしれません。ただ、問題はその先にあるのです。

つまり、その根底に個性化と向上意欲を備える人間にとって、自己顕示欲はどうしても避けられないものだとしても、その結果、お互いが幸福に生きられるかどうかという問題があるのです。

花たちは、それぞれ美しさを競い合って咲いた結果、非常に美しい景観を生んでいます。人間の目を楽しませることもでき、花たちもそれ相応の幸福感を味わっているのでしょう。しかし、美しい花であっても、一つの花の幸福が他の花の幸福の阻害するようなときには、やはり悲劇になるでしょう。

そうしたことが植物の世界には実際にあります。ある種の草や木が繁殖しはじめると、他の植物は、光をさえぎられ、養分を充分にとることができずに、生息できなくなることがあるのです。

自己顕示欲の問題点は、実はこの辺にあります。互いに共存共栄できる場合には、自己顕示欲のよい面を生かせるのですが、一つのものが栄えると他のものが滅びるような場合には、不幸が生まれるのです。

それでは、自己顕示欲は、そうした不幸を容認してまで許されるべきものなのでしょうか。

花壇に花が咲けば喜ばれますが、雑草が家の敷地や田畑を埋めつくすほどにはびこると、非常に迷惑なので、その雑草は刈り取られる運命になります。

実は、ここにポイントがあるのです。他のものを害していないかどうか。他のものの幸福を奪っていないかどうか」ーーこれがまさしく自己顕示欲のチェックポイントなのです。

自己顕示欲に悩む人に対して、私は次の解答を与えたいと思います。

あなたが若くて自己顕示欲の強い人であるならば、おそらく、あなたは優秀でバイタリティーのある人と思います。したがって、今後、ますます自分の道で精進することが望まれるのですが、その際に大切なのは、「自分が雑草のごとく生い茂って、他のものを害していないか」という観点を決して忘れないことです。

あなたは、バリバリと仕事をして目立てば、自分の気はすむかもしれません。しかし、その結果、まわりの人があなたのことを不愉快に感じてしかたがないのならば、あなたのやり方には問題があると言わざるをえないのです。

 

3. 長距離ランナーのように

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こうした場合に心掛けるべきことは、「静かに自己発揮をしていく」という生き方です。これが、練れた(nereta)大人の生き方と言えるものなのです。

ギラギラとした自己顕示欲で悩んでいる人は、人の目を引こうと焦ったり、結果主義になったりする傾向がどうしてもあるように思います。

人の目を気にしすぎるのは、自己評価がまだ確定していないことに起因しています。自己評価だけでは満足できず、他人の評価という確認を常にとらないと、自己存在が不安感に感じられ、安心できないのです。

したがって、自己顕示欲に悩む人は自尊心をしっかりと持つことが大事です。自分自身がほんとうに値打ちのある存在であることを知る必要があります。

そのためには、人の目に映る自分の姿を考えすぎるのではなく、「自分自身を見て納得がいくかどうか。納得のいく仕事、納得のいく生き方をしているかどうか」という点を、日々、点検することです。

毎日、自分の心に誓って(chikatte)納得のいく生き方をすることが大事であり、それが、結局、静かに自己発揮していくことに通じるのです。内なる力を蓄えながら(takuwae-nagara)、静かに、しかも着実に自己発揮をしていくことが大事です。

さらに、もう一つ大事な心掛けは、「自分が目標とするものが何であるかを明確にする」ということです。

刹那的な(setsuna)目標のために自己顕示するのが最も危険です。これは破滅型の人生となることが多いのです。たとえば、「現在ただいまにおいてのみ、あの人に気に入られればよい」などという刹那的な目標のための自己顕示欲は、おそらく虚しい(munasii)ものになるでしょう。

肯定されるべき正しい自己顕示欲とは、将来性があり、長いあいだ自分を燃やし続けられるものでなければならないのです。

その意味で、長距離ランナーの心得(kokoroe)というものが何にもまして大切になります。長い距離を行こうとするならば、その途中で、人の評価を気にしたり、人の言葉に左右されたりする必要はあまりなく、自分のペースを守って着実に走り続けることが大事なのです。

自己顕示欲の強い人は、たいていの場合、短距離ランナーであることが多いものです。短距離ランナーだと、たまには成功することもありますが、決して長続きしません。したがって、意図的に長距離ランナーへと自分を変えていくことが、自己顕示欲の悩みから脱皮するための一つの方法なのです。

 

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いかがだったでしょうか???

私もこの記事を書いて反省させられました。僕自身も新しい学問的何かをおこしたいので、そのためにも「やりたいことをやるためにも」まず頭に入れておくべきポイントはここだと思います!!

そうした新しいことにチャレンジしていくと「孤独」になることはだれだってあります。そういったなかでも、両親に普通に相談したりですとか、先輩や友人に心を開いてみるだとか、恋人と一緒に解決したりだとか、知らない人に逆に聞いてみたりだとか、ウェブで調べたり、自己啓発の本を読んで自分なりに解決したり、いろんな方法があると思います。

そういった中でも、特に重要なのが「仏や神は何を考えているのか」もしそれが漠然としててわからないのならば「この世界の絶対的に正しい観点で考えたならば、自分で判断した考え方は本当に正しいのか」「宇宙から見て自分はどう思ったのか」「神のお考えはどういうものか」をしっかりと認識すること、把握すること、理解しようと努力することが重要なんです!

「仏の子」とは何かというと私たちの頭の上の上には「大いなるもの」がいて、その大いなるもの観点から見て自分はまだまだ捨てたもんじゃないと思う心です!たとえ、偉人でも太陽からみたらアリが女王アリの上に立ったキリギリスのような存在なのかもしれません。そうした昆虫世界よりも遥か天空にいる太陽こそが「仏」であり、私たちは「神の子」「仏の子」なのです。

では、「神と仏はどう違うのか」は以前のブログを見れば分かると思います。そのわかりやすい事例は後ほどご紹介致したいと思います。

 

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20/04/22

 

もし、ご意見があればコメントよろしくお願い致します!!

ご精読ありがとうございました。

以上、丸々でした◝(⑅•ᴗ•⑅)◜..°♡

 

「あの世」って存在するの?!

みなさん、こんにちマウス🐭 丸々です!

👻が出るような「怖い話」ではないので、ワクワクするお話です٩꒰ ˘ ³˘꒱۶~♡

今回は「あの世」について実在するのか、しないのかについてご紹介していきたいと思いま〜すっ!!!!!!!!

 

ここで、質問ですが、「みなさんは夢を見たことがありますか?」

夢には、前日に起きたことの残像が記憶に残っていて、その延長として想像でつくっているものもありますが、それだけではなく、実は霊界体験もかなりふくまれているのです。」・・・『繁栄の法』より

そうした「霊界が実在するのか」において、「あの世」とは霊界そのものであり、「あの世は100パーセントある!」ということです。

これは全部、セミナー講師や牧師さんから聞いたすべてのことと、それから本や研修や大学授業を受けて学んだことのすべてです。

私の友人でも「臨死体験したことがある」という人もいますし、「天使の羽を見た」という方もおります。やはり、目に見える人は人類のなかで特別な人なのかもしれませんネ ( ●ー● )ベイマ~ックス

ちなみに、「臨死体験」とは、例えば、Aさんが交通事故あるいは病気で死んでしまった時に、「自分Aさんの眠っている姿が見えるようになったり」「三途の川が見えるようになったり」「雲の上の世界が見えるようになったり」と死後の世界(あの世)を見てきて、病室で眠ってるAさんの身体に戻り、生き返って奇跡が起きる現象のことです。要するに、死んで生き返る。その間に見た景色が「あの世」で、YouTubeやネット上でも証言がかなり出てきます。証拠も「死んだ時のあの場所の赤い靴」が実は現実世界と一致していたという記録もあるんですね。実に、不思議desu▷◁.。

 

今回紹介する「あの世について」と題しまして、3つのテーマにジャンルを分けて、実在性について論破致します!

1:この世とあの世

2:天国と地獄

3:多次元宇宙

これについて2点の「法シリーズ」の書籍である『永遠の法』『太陽の法』から抜粋にて論述致します。

 

【1:この世とあの世】

では、抜粋です。↓↓↓↓↓

 

人間にとって、「自分はどこから来て、どこへ去っていくのか」ということは重大問題であり、これが心の底から離れることはないでしょう。しかし、人間がどこから来て、どこへ去っていくのかという問題に、明快に答えきったことがある人は少ないと思われます。

なぜなら、この問題は、あの世とこの世の関係を解明せずしては、答えが出ないものだからです。しかも、残念ながら、現在、地上にある学問には、あの世とこの世について明快に説明をするだけの学問的蓄積もなければ、確立された方法論もありません。<略>

すなわち、あの世とこの世を解明するにあたっての不確かさというのは、追体験ができないというところに原因があるのです。<略>

それゆえ、普通の人にはあの世の存在が分かりません。そこで、世の常識ある人びとは、あの世の存在や、あの世とこの世のかかわりというものを、認めたがらないわけです。

人間は人生観や人生の目的を常に考える存在ではありますが、それは一大問題であるため、「大宇宙のなかにおいて、自分はどのような存在なのか」ということを明確につかむまでは、人生観や人生の目的を確立しえないのです。<略>

どちらが人間の進化や向上に役立つかといえば結論は明らかでしょう。永遠の進化を目指すという観点に立ったときに、人間ははるかに向上していくということです。

人生は一回限りであり、人間は、わずかな期間でしか生きていない、線香花火のような存在だとするならば、人生には重大な意義も目的も見出せないのではないでしょうか。<略>

わずか数十年の人生であるならば、「自分が楽しまなければ損だ」という考えになってしまっても、おかしくはないかもしれません。

しかし、永遠の人生であれば、「人のために奉仕したことが、やがては必ず自分自身の魂の糧(kate)となって戻ってくる」と考えられるのではないでしょうか。

したがって、人生観、あるいは人生の目的と使命を考える際に、あの世とこの世という視点を理解しておくのは非常に大切なことです。<略>

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※この世=現世(3次元) &  あの世=図では幽現界より上の世界(4、5次元以上の世界)

 

【2:天国と地獄】

↓↓

実際、百人に訊けば、九十九人までが「死にたくない」と言うでしょう。

こうした言葉が発せられるのは、「この地上が住みやすいから」という理由だけではありません。あの世の世界、死後の世界に対する不安感や恐怖感が大きいからこそ、「死にたくない」という気持ちがあるのです。

しかし、まれには、この世があまりにも住みにくいがために、あまりにも苦しい世界であるがために、死に対する不安感や恐怖感を通り越して、みずからの生命を絶ち、あの世へと旅立とうとする人もいます。

いずれの考えをとるにしても、あの世の世界、死後の世界に対する無知が、その基礎にあると私は思います。<略>

そして、地上の生命が息絶えたときには、霊体というものが肉体から抜け出すのです。<略>

主(おも)として、「霊的な目から見ると、自分の人生はいかに間違っていたか」ということです。すなわち、肉体中心の生き方について、つくづく反省をさせられることになるのです。

地上で肉体中心の生活をして、霊的に目覚めていなかった者は、反省の結果、4次元にある、いわゆる地獄という世界に、みずからの選択と判断によって赴き、そこでさらに厳しい試練を受けることになります。

しかし、霊的な生き方をしなかったとしても、それを「過ち(あやまち)であった」と率直に認め、悔い改めた者は、4次元のなかでも、精霊界という、調和された霊たちがいる世界へと行くことになります。

このように、肉体を持っていたときの記憶を中心にして、その後の人生が分かれるのです。これは、いわゆる閻魔大王(えんまだいおう)が裁くのかといえば、そうではなく、自分自身の良心、善なる心、仏の子としての本性(ほんせい)が、みずからを裁くのです。<略>

したがって、この新しい経験とは、数十年の地上生活を終え、地上という学校を卒業して、また新たな学校に入ってきたことを意味しています。すなわち、新しい出発が始まり、新しい先生に出あい、新しい教科書に出あい、新しい授業に出あいます。こうして、4次元に還ってきた(かえってきた)人たちは、まず、「霊的なるものとは何か」ということを徹底的に教えられるのです。<略>

地上の人びとにしっかりと知っておいてもらわなければいけないのは、地獄は天国と二分されるものではないということです。これだけは、はっきりと言っておかなければなりません。

地獄というところは、地上世界を3次元とするならば、4次元以降の世界、9次元、10 次元、あるいは、それ以上の高次元をもふくむ世界のなかの、ほんの一部なのです。すなわち、「地獄は、4次元といわれる部分のなかに巣くった、悪想念の巣窟(soukutsu)にしかすぎず、天国と二分されるものではない」ということを、どうか頭に入れておいていただきたいのです。←

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※さらに、読み進めると、4次元の一部にある「地獄の世界」には、「色情地獄 shikijou(血の池地獄とも言う)」「餓鬼地獄 gaki」「畜生道 chikushoudou(動物地獄とも言う)」、「阿修羅地獄 ashura」「土地獄」さらには一番下にある「無間地獄 muken」がある。この地獄は人間たちの悪い思いによって作り出した世界だと言う。これは実際に現実に存在する世界であり、今現代の社会を見渡しても、賭博や風俗のなかで裏の世界にジメジメと存在するのである。実際の幽霊の世界でも地獄の周りで徘徊する天国に行けない人たちということである。「不成仏霊 fujoubutsu-rei」や「生霊 ikiryou」「悪霊 akurei」も同じ地獄の人たちである。

ちなみに、天国ではどんな人がいるかというと、羽の生えた「天使」や自分をいつも守る「守護霊」、「指導霊」「菩薩 bosatsu」「如来 nyorai」「神様」「仏様」がいる。そこは4〜9次元に住む良き人たちである。

続いて、大宇宙の創世記を物語る『太陽の法』では次のように説かれております。↓↓↓↓↓

 

【3:多次元宇宙】

私たち人間は、はるかむかしから、永遠の生命をもって生きております。そして、何度も何度も、地上に生まれかわっては、人生修行を積んでいるのです。(※これを「転生輪廻 tenshourinne」という)

この磁場とした世界だけをとってみても、私たち人間の生命体が活躍している空間は、この3次元地上界だけではありません。私たちは、本来、実在界、すなわち、4次元以降の住人なのです。それは、5次元、6次元、7次元、8次元、9次元、最上階である10 次元まで広がっています。そして、心の段階によって、それぞれ異なる調和された世界に住んでいるのです。

ですから、宇宙が有限か、無限か、を悩んでいる方に対して、私は、「あなたが問題としている宇宙とは、3次元宇宙ですか、それとも、4次元以降の多次元宇宙ですか」と聞きかえさざるをえないのです。<略>

すなわち、高次元宇宙とは、下次元宇宙をスッポリとおおうものなのです。といっても、下次元宇宙とまったく関係のないものではなくて、同じようでありながら、いっそう高度な目的をもった世界、それが高次元宇宙だといえます。<略>

「次元」とは、その世界のなりたちを、いくつの要素で表現するかといった世界観です。

例えば、一次元というのは、点の連続からなる直線の世界です。もし、一次元の世界にも住人がいるとすれば、自分と他人を区別する基準は、線分としての長さしかありません。つまり、自分は、他人より、長いか、短いか、です。したがって、同じ長さの住人だとすると、自分も他人も区別がつかないことになります。

これに対して、二次元の世界とは、縦と横がある世界です。そして、縦と横によって決定されるのはです。ですから、この二次元世界に住人がいるとすれば、ちょうど魚のヒラメのように、面のみあって、厚みがないはずです。したがって、縦と横によって決定される面が同じであるヒラメ人間、形も面積も同じであるヒラメ人間、そうした人間同士も、自他の区別がつかないということになります。<略>

三次元とは、縦、横、そして、高さからなりたっています。

縦、横、高さによって決定されるものとは、いわば、「形状」です。つまり、三次元の住人は、身長も同じ、横幅も同じ、厚みも同じとどこから見ても同じ形状でなければ、同一人物だとはいえません。ですから、この点において、二次元のヒラメ人間よりも、複雑な自他の区別があるわけです。

四次元世界になると、三次元の世界の縦、横、高さに加えて、時間が要素として入ってきます。すなわち、三次元世界では、同一空間内に存在する事物は、同一時間を共有しているのですが、四次元ではそうではないのです。三次元世界で私たちが握手する人間、接する事物は、何年何月何日の何時という同じ時間、時点に必ず存在するわけですが、四次元世界になると、そうではなくなるということです。<略>

五次元世界になると、縦、横、高さ、時間に精神が加わり、五つの要素がこの世界を決定します。<略>

さらに六次元世界になると、縦、横、高さ、時間、精神という五つの要素に加えて、真理知識という要素が入ってきます。<略>

次元 利他

次元 慈悲 

次元 宇宙

次元 創造・進化 = 「大日意識」「月意識」「地球意識」の三体構成、つまり、「惑星意識」

十一次元 太陽系の使命、恒星意識

十二次元 銀河意識  

 

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※ここまでは宇宙のなかの次元の世界で、宇宙の中にある霊界の世界ではこのような名称がある。

4次元の世界のことを次元界 yuu-kai (精霊界や地獄界も含む)

次元善人界 zennin-kai

次元光明界 koumyou-kai

次元菩薩

次元如来

次元宇宙

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いかがでしたでしょうか???!!!!

「あの世の歴史」についても述べたかったのですが、読者様には分かりづらくて信じられない内容なので、省きます。

昔々のはるか昔には、20次元に存在する神がいて、ビッグバンができる前は高次元しかありませんでした。当時は金星の文明は予想以上に人類成功を修めましたが、火山爆発によって消えたということです。それから、金星人たちは宇宙船を使って地球に住み始めました。天上界(高次元世界のこと)ではカイトロンを使って人霊創造を使って、男性と女性を作りましたが、時代がサカのぼって低級霊界を作る人たちもでてきて、地獄にくる前ぼサタンが地球の一部の人類を迷わせたことが原因で低級霊界に落ちて帝王となりました。そして、いろんな人を霊的に迷わせて下の霊界に落ちる人が急激に増えたために地獄ができたということです。

そして、「天国と地獄」ができたんですね〜〜

 

「あの世」はファンタジーでダイヤモンドな天国の世界があって、グロテスクな地獄の世界もあるのですから恐ろしっっつ;(´◦ω◦`):

ただ、人生だいたい100年について、長い期間で考えますと「人生、楽しまなきゃ!⸜( ॑꒳ ॑ )⸝⋆*」じゃなくて、「死んでから後のこと思って、人のためにやることをやる!!」ということが大事なのではないかと思いました。

やはり、地獄に落ちたら大変なことになりますから、そこから反省して天国にはいあがることもできます。ただ、人に対して悪いこともしたくないし、自分勝手にやればいいじゃだめですね。

一番イイのは死ぬ前に神仏の教えをちゃんと学ぶことです!!そうしないと、死んでからどうすればイイのか分からなくなり、幽霊の仲間入りになります。嫌ですよね??ならば、生涯現役で最高齢を目指すことです!!

 

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20/04/21

 

みなさんはどう感じましたか?( ´•౪•`)

もし、ご意見があればコメントしてください( ˙꒳​˙ )

ご精読ありがとうございました。