unioo-1618’s blog

理念「信仰と宇宙」、夢「宇宙語」

仏陀が説いた「苦しみ」について

どうも、こんにちワンワン🐶 丸々です₍ᐢ •̥ ̫ •̥ ᐢ₎

 

みなさんは「苦しんだ経験」や「苦いエピソード」がございますでしょうか?

私自身も経験したことがあります。しかし、自己の実体験と致しまして、それを乗り越えるのは自分自身で、固定観念や執着を捨てて、ハッピーな過ごし方をすることが非常に良いでしょう。だから、今では私は幸せです!人間関係を解決すれば悩みの7割は解決されるということです!( ¯꒳¯ )b✧

 

今回は、「仏陀が説いた苦しみについて」と題します。過去インドで悟りの高い「仏陀」(Buddha)が過去に歴史上の人物として説いた教えの中の「苦しみの取り除き方」についてご紹介したいと思います!!!!!!!

その前に、前回では「与える愛とは何か」をお話致しまして、「与える愛が幸福になる生き方であり、マイナスの方では奪う愛をしている不幸な生き方である」ということを紹介した本から抜粋にてご紹介致しました。「愛」にも見返りを求めない「無償の愛」がございます。要するに、「愛」とはギブアンドテイクではなく、与え続ける愛、太陽のような存在になることが究極の愛なんだということですネ(..◜ᴗ◝..)

「愛されてない」という感情が湧くとこれが「苦しみ」になります。それを根本的に解決する方法は自分自身で悟ることよりも、まず最初にやるべきことは仏教の開祖である「仏陀の教え」を学び、反省することから始まります。この反省が一番大事な方法なんですね。

 

では、紹介する本と致しまして、『HS仏教論』から抜粋にて語ります。ここでは、「仏陀とは何か」について書かれてあります。↓↓

古来、仏陀は「釈迦、釈尊、ゴータマ、世尊(seson)」など様々な名称で呼ばれています。

ブッダ」とは、「真理を悟った人」という意味で、漢字で音写すると「仏陀になります。「仏」は仏陀の略です。仏陀の本名は「ゴータマ・シッダールタ」で、ゴータマは「最高の牛」、シッダールタは「目標に到達した者」という意味です。

また、釈迦族の聖者という意味で、「釈迦牟尼」(shaka-muni)と称されることもあります。「世尊」は仏陀の尊称(仏の十号 )の一つであり、「釈迦牟尼世尊」とも言われています。この文字の間を略して日本では「釈尊」と呼ばれています。←

 

💡では、続いて「釈迦族で最も尊い御方」である「釈尊」(仏陀)が説いた教えの中の「苦しみ」についてご紹介致します(ง ˙˘˙ )ว    書籍『仏陀の証明』ではこう書かれております。

ちなみに、大事なところだけをご紹介します。🍚のマークが出てきたら飛ばして読んでください。「詳しく知りたいよ〜」という方は超長いですが、ヨンで頂いても構いません。もし、お読みの方は、終わりの🍙が来たら終了ということで、🍚〜🍙が来たら超嬉しいッス⸜( ॑꒳ ॑ )⸝⋆*

 

では、結論から述べます。

↓↓↓↓↓

他の人から、「仏陀の悟りとは何ですか」と訊かれたら、まず、「人間には生(shou)・老(rou)・病(byou)・死(shi)の苦しみがあります」と言えば良いのです。誰もこれを否定できません。そして、「あなたも苦しみから逃れられません。どうされますか」と問いかけることです。さらに、「苦しみから逃れる方法があります。それは、やはり、悟り(satori)の力によって逃れていくのです」と伝えてください。

「その悟りの力は、どうしたら得られるのですか」と問われたなら、「それは無我や空という悟りです。この智慧の言葉を得て初めて、悟りというものは力を持ってくるのです。その悟りの力をもって、人生を漕ぎ渡っていきなさい」と答えてください。

さらに付け加えるとするならば、「あなた独りの力では、なかなか無理です。やはり、仏陀の教えを信じて、ついていくことです。それがいちばん間違いのない王道なのです。 ー略ー 仏陀を信じて、あなたもついて来なさい」

 

 

↓↓🍚

【四苦について】

肉体というのは有限なのです。有限とは文字どおり、「限りがある」ということです。限りがあるということは、それに執われ、こだわり、執着して、心を縛りつけても、結局は無常のものであるということです。

無常とは、「常ならず」ということです。「肉体は常なるものではない。肉体に執着して、これが自分だと思っても、それは無常のものなのである」ーーこれは簡単なようでありながら、結局、仏教の基本であり中心なのです。<略>

釈尊の悟りからいうと、結局、人間の悩みや苦しみのもとは肉体なのです。肉体的生存こそが自分だと思っているところに、最大の迷いがあり、その「無明」(mumyou)ゆえに、不幸が来るのです。実は、これが大きな出発点なのです。簡単なようでありながら、よくよく考えてみると、確かにそのとおりなのです。<略>

「この肉体は有限なり」とは、当たり前のことを言っているようですが、ここから悟りが出発しているのです。そして、「生・老・病・死」(shou/rou/byou/shi)の四苦(shiku)があるのです。<略>

 

【生について】

そして、なかば冬眠状態に入って母の胎内に宿り、十月十日経つと生まれてきます。この「生」(shou)をきっかけとして、さまざまな人生の苦しみも生まれてきます。

その結果、魂という、自己の本来の姿を忘れ果て、この世でわがままいっぱいに生きて、他の多くの人を迷わせたり狂わせたりし、宗教的信条を否定するようなことをします。あげくの果てに、死後は地獄に堕ちてしまいます。

さらには、地獄に堕ちても堕ちた自覚はなく、苦しまぎれに地上に出てきては、自分の心に波長が同通する人に取り憑いて、その人を狂わせ、地獄に引きずり込むのです。こうしたことをくり返している人が数多くいます。無明です。明かりがない、智慧がない行為です。このような哀れな人間になっていくのが、真相なのです。この真実を知らないで生きるということは、どれほど気の毒なことでしょうか。<略>

しかし、釈尊は、物心がついてから、「自分を産んだことによって、私の実母が一週間で地上を去った」という事実を知った時、非常に大きな衝撃を受けたことは事実です。「自分が生まれることと引き換えに、母が生命を失っている」という事実を知ることが、どれほど悲愴(ひそう)なものであるかは、わかると思います。

母が子を産むということは大変なことです。それは、自分の生命と引き換えに、この世に生命を産み落とすということなのです。

それでも、その子が世の中のお役に立って立派になってくれるならば、”死に甲斐”(しにがい)もあるというものですが、まったく逆のことをして生きている人も大勢います。せっかく母の生命と引き換えに生まれた子供であっても、間違った人生を生き、他人様(ひとさま)に迷惑をかけて、地獄に墜ちるようなこともあります。それなら、なんのために産んだのか、ということになります。

ですから、子供を産むということも、非常に大きな問題を孕んで(はらんで)いるわけなのです。そうしたこともあって、この「生」が最初に来ているのです。<略>

あとの「老・病・死」の苦しみがすべて、この「生」をもとに発生している、ということでもあります。これが大きな理由だと思います。<略>

 

【老について】

この「老い」ということに関して、いちばん残念なことは、歳をとると反省ができなくなることです。言い訳と愚痴(ぐち)は上手になりますが、反省はできません。自分が悪かったとは思えなくなるのです。<略>

しかし、残念ながら、この老いというものは、逃れることはできないものなのです。どのような方でも、老いていきます。<略>

ですから、人それぞれなのです。人それぞれの人生であって、たとえば親の支配下にある時は、親の影響を受けるでしょうが、独立して何十年も経てば、やはり個人の問題です。その間に何をしたかというと、原因・結果のプロセスの積み重ねがあって、現在ただいまの自分があります。<略>

 

【病について】

もとをたどれば、その病気をした原因は自分自身にもあるのです。その兆候はあったはずです。「無理をしたら身体(karada)にくる」というのは、わかっていたのです。しかし、それを見抜く智慧がなかったのです。肉体の病気も、やはり智慧の不足から来ます。

 

【死について】

頭ではあの世がわかっていても、実際に「もうすぐ死ぬのか」と思うと、なかなか耐えられないものです。<略>

老病死の苦しみが一緒になって襲ってきて、だんだん苦しくなってきます。そして悩乱していきます。

霊的人生観を持たない人は、死の苦しみによって、ますます破滅的人生を送ることもあります。<略>

 

【人は苦しみのなかで仏陀と巡り逢う(めぐりあう)】

ですから、「四苦の苦しみはない」と言うよりも、そうしたものは現実にあると認め、それと真正面から立ち向かっていくべきだということです。「苦難・困難というものが人生には予定されているが、それを乗り切っていかなければならないのだ」ということが、釈尊の教えです。

人は、苦しみに直面して初めて、その苦しみを越えるための方法なり、教えなり、何か自分の人生の縁(yosuga)とすべきものがあるのではないか、ということに考えが到ります。そして、人は仏陀に巡り逢うのです。

生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病(yamai)の苦しみ、死ぬ苦しみーーこれらは真理です。しかし、悟りの力こそ、悩みを断ち切る刃(yaiba)なのです。「四苦はほんとうに苦しみであるが、悟りによって、人はその悩みを断ち切ることができるのだ」ということです。

この悟りのもとになるものが智慧です。「智慧の力によって、この世的な苦しみを断ち切っていきなさい」と言っているわけです。<略>

悩みを断ち切る力のもとは智慧です。智慧の一つである「無我」(muga)を受け入れて、無我という真実をまず知ることが大事です。

「肉体はこれ我(ware)ならず」です。肉体というのは自分自身ではなくて乗り物なのだ、ということをまず知りなさい、ということです。<略>

肉体が自分自身ではなくて乗り舟(noribune)であるならば、煩悩(bonnou)というものも、肉体を中心に出てくるものです。「眼・耳・鼻・舌・身・意」(gen/ni/bi/zetsu/shin/i)の六根煩悩から、いろいろな苦しみが現れてきます。<略>

一方、「無我」と区別して、「空」という言葉を使うならば、これは霊的人生観のことです。「霊的な世界こそが本来の世界である」ということを、しっかりと認識していると、「この世は仮の世界なのだ」ということがわかってきます。「仮の世界のなかで、何をあくせくとして苦しんでいるのか」ーーそれを思うと、自分はつまらないことにこだわって、苦しみをつくっていたことがわかります。

自分の苦しみの根源をずっとたぐってみると、「他人の目から見て自分がどう見えるか」やプライドなど、すべてこの世的なるものが原因です。ほとんどが、このエゴのところなのです。自我我欲、これが満たされないために苦しんで、暴れている、というのがほとんどです。<略>

人間が人間である以上、その悩みも同じところから出て、その救いも同じ道から生まれてくるのです。

🍙

↑↑↑↑↑

画像1

いかがだったでしょうか????

 

 

ちょっと、、長いですね〜〜〜 省略しても大事なところだけ多くなります(笑)

仏教では他にも「四苦」だけでなく「八苦」(hakku)と言いまして、生老病死」の次に来る「怨憎会苦」(onzoueku)、「愛別離苦」(aibetsuriku)、「求不得苦」(gufutokuku)、「五陰盛苦」(goonjouku)があって「四苦八苦」となります。

要するに、四字熟語の意味と致しまして、順番に申し上げますと、「嫌な人と会う苦しみ」、「愛する者と別れる苦しみ」、「求めても得られない苦しみ」があるということですね。

これを釈尊四諦」(shitai)という「苦・集・滅・道」(ku/juu/metsu/dou)によって「苦しみ」を立ち去ると教えて頂いております。

そして、「道」には「苦しみor楽しみにも幸福がない」という真理をつむぎ出して、その真ん中の「中道」つまり「弦が引っ張りすぎても、緩みすぎてもダメだから、程々が良い」ということを悟ったのです。そして「八正道」(「見・思・語・業・命・精進・念・定」の漢字の頭に「正」がすべてついたヤツ)という順番で反省していき、解脱 gedatsu(自由)と涅槃 nehan(平和)になる。これで苦しみがなくなって幸福になるということを説いたのですね。

 

f:id:unioo-1618:20200516153455j:plain

20/04/19

 

論理的でロンゲストですが、実に奥深いですね(ง ˙˘˙ )ว

仏教は宗教です!私もHSという宗教の会員ですが、やはり、世界のいろんな良い宗教や悪い宗教のなかでは、ストイックな教えを説いたのはここしかなく最先端の内容だと思います。

みなさんはどこが心にピンっっとときましたか?もし、ご質問やご感想があればドシドシ、コメントよろしくお願いします✧ʕ̢̣̣̣̣̩̩̩̩·͡˔·ོɁ̡̣̣̣̣̩̩̩̩✧

「あの世は本当にあるのorないの?」については次回お話しましょう!!!!!!!!!!

以上、丸々ぅうう〜でした🈚🈳